新しいは、いいこと。…だろうか?
スペインの田舎町で、教会の古くなったフレスコ画のキリスト像が、絵心アリと自負する善意の80歳のおばあちゃんの「修復」で、見違えるほどの「別物」(いや正確には、誰が見ても見違えることはないほど違うものになっていたのだが)になって、世界的な仰天ニュースになったことがあった。最初は、非難ごうごう。しかし、野次馬観光客が押し寄せ、禍を転じて福と為した。
昨年、日光東照宮の「三猿」(見ざる・言わざる・聞かざる)が約40年振りに修理され全面的に塗り直された。前に立った。絶句。言葉を失う!は比喩でなく、実際にあるのだ。
日光東照宮は、京都奈良の寺社仏閣にくらべ、けばけばしくキッチュ。それがわかっていながら、思わず、かつての小学一年生のコマーシャルのメロディで♪ピッカピカの三猿さ~んと口ずさんでしまった。調べると、1923年から今回までの5回の「顔」の写真記録が日光社寺文化財保存会に残っており、正直、どれもヘタウマな感じで笑える笑える。ということは、どれが「正しい」のかわからないのだ。つまり、正解がない。
シェイクスピアの『マクベス』のセリフ「綺麗は汚い、汚いは綺麗」を思い出した。絶対的な、普遍的な美なんて、ない!そもそも価値(観)なんて相対的なものなのだ。
10円玉の平等院鳳凰堂。その平成の修理完成記念の展示会(サントリー美術館)で見た国宝の雲中供養菩薩像。空を実に楽しげに駆ける菩薩たち。平安当時の極彩色の想定復元があわせて展示されていたが、もやもやっと違和感を覚えた。なぜだろ?
「バックトゥーザもとのまま・まっさら」が最善策?
「金継ぎ」を知ったときは、興奮した。陶磁器の割れとかヒビ、欠損の修繕技術だが、それを美(景色)と見る感性にはほとほと感心した。ふつう、修繕した個所は極力わからなくするのに、隠さず、ここを直しましたと目立つ金で示すのだから恐れ入る。
もとは足利義政が、愛用の茶器が割れたかして、覆水盆に返らずと諦められず、捨てるには忍びなく、陶工はもちろん漆や象嵌、蒔絵といった職人に命じて完成させた。江戸時代になり、わびさび志向の茶人たちが、たとえば漆黒の楽茶碗に金継ぎしたのを、「稲妻のよう」と愛で「雷(いかずち)」と銘をつけるなどして「芸術」へと昇華させたのだ。
建築の世界に目を向けると、やっと金継ぎ的な価値観が出てきているように感じる。
赤レンガの東京駅。戦災前の姿に復元されたのだが、建物にとって、どの時点が本来の姿なのか、そもそもオリジナルとはなんだろうかといろいろと、考えた。ただ、いま言えるのは、シャキッと背筋の伸びた孤高の老紳士の風格に痺れるということだけである。
周りに林立するピッカピカのカーテンウォールの超高層ビル。睥睨しているように見えなくもないが、わたしには青二才が小柄な長老の威厳にたじろぎガチガチに緊張して直立不動しているように映る。はい、あくまでも個人の感想です。
加齢は、華麗。と、考えてみると…
明治維新150年であり戊辰戦争150年。近代日本は、殖産興業と勇ましく宣言し、その達成には工業だ!この道しかない!と突っ走ってきた。
工業の使命は、絶えず新しいモノを作りつづけることにある。建築の世界では、建て替えと新築が、それにあたる。
「新しいモノこそが、つねにいいモノである」と信じ、ひたすら前だけを見据え「もっと新しく!もっともっと」と、バブル経済が弾けるあたりまで一気通貫してきた。結果、品質面でも、量的にも、世界が認める、ある一定レベルの達成をなしえたのは確かだろう。メードインジャパ~ン!(郷ひろみになったつもりで声に出して)しかし、もう十分だろう、フローに必死になるのは。さあ、足元の、目の前のストックを見直そう。
マイナスのストックと言われる800万戸という空家。たぶんこれには、高度経済成長を支えた団地も含まれる。限界集落化とか買い物難民とかネガティブに取り上げられる一方で、「団地リボーン」という取り組みで、遠ざかっていた子育て世代や若者が戻りつつある。
こうした「新しさ」信仰一辺倒から抜け出すストックの活用機運。「シワもシミも、そのひとの生きてきた痕跡。それこそが味わい。逆に、いい歳なのに、加齢を感じさせない、年輪を感じさせないノッペリとした顔なんてむしろ気色悪いし、つまんない」というアンチエイジング志向への真っ当な異議申し立てが建築の世界にも起こりだしたのは、大歓迎だ。
人類学者のレヴィ=ストロースは、西洋文明至上主義を『野生の思考』でこてんぱんに批判した。そのなかで、まわりにある既存のものを使えないかと創意工夫するアマゾンの民の手業を「ブリコラージュ(器用仕事)」として称揚した。導きの灯になる豊饒なキーワードだと思う。
- 大槻 陽一
- 有限会社大槻陽一計画室 ワード・アーキテクト