アフターコロナかウイズコロナか
紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世の死因は、感染症のひとつ、天然痘だったらしい。人類初のワクチンである天然痘ワクチンを開発したのは科学者エドワード・ジェンナー。1796年のことだ。日本で本格的に天然痘ワクチンが普及するのは1849年(嘉永2年)。そして日本で天然痘が根絶されたのは1955年。なんと、天然痘ワクチンが普及してから100年もかかっている。
1977年のソマリア人青年を最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発した。
日本では現在、COVID‑19(新型コロナウイルス感染症)の猛威は落ち着きつつある。2022年3月21日、18都道府県に出されていたまん延防止等重点措置も解除された。
とはいえ、海外では依然として猛威を振るっている。オミクロン株のうち、より感染力が高いとされる「BA.2」への置き換わりが進むなど脅威がなくなったわけではなく、「このまま安心」となる気配はない。天然痘のように100年はかからないとしても、人類とCOVID‑19の戦いは長期化すると見られている。
人類は、COVID‑19のない「アフターコロナ」の時代を目指すべきか、それともCOVID‑19と共存して生活する「ウィズコロナ」の時代を目指すべきなのかが問われているともいえる。
ゼロリスクを目指す人々
中国では「ゼロ・コロナ」政策が取られている。文字通りコロナ感染者をゼロにするという政策だ。
北京市内から数キロ離れた大型団地で1人のコロナウイルス感染者が発生した。すると、感染が確認されたその日のうちに周辺のオフィスビルも含めた団地全体が封鎖されたという。団地に住む約2500世帯は、団地の外には一切出られなくなったと報じられている。ゼロ・コロナを達成するための徹底ぶりだ。
SFアンソロジー『ポストコロナのSF』 (早川書房)では、19名のSF作家がCOVID‑19の世界を描いている。そのなかの1篇「砂場」(菅浩江・作)では、ウイルスから身を守る「カバード(覆われた人)」が登場する。カバードとは分子サイズのフイルムで全身を包むウェアを着た人々のこと。外と完全にシャットアウトすることで総てのウイルス・ばい菌から身を守ろうとする人々をいう。
ゼロ・コロナを目指すのなら、最後にはカバードを開発するしか手はないのかもしれない。
少ないリストで効果を上げる
過去、開発されたワクチンのなかで、開発期間が最も短かったものはムンプス(流行性耳下腺炎)ワクチンで、4年だったという。しかし、COVID‑19ワクチンはわずかに1年で開発された。
短期間の開発を可能にしたのには、いくつかの理由があるというが、長年にわたる先行研究が大きかったのだそうだ。あと、開発プロセスの短縮化も要因としてある。
ワクチンの開発で最も時間がかかるのは、ワクチン候補を見つけることではなく、治験を実施する段階らしい。開発のために動物やヒトで有効性と安全性の検証を行う。ひとつのプロセスが終わったら次のプロセスと進むため、時間がかかる。
ところがCOVID‑19ワクチンでは個々のプロセスをほぼ並行して進めた。このことで開発期間を短縮することに成功したというのだ。
エンジニアリングの世界に「アジャイル開発」という手法がある。通常、開発では最初にプロジェクトの要件定義や設計を細部まで決定し、そこから開発を進める。そのため、途中変更ができず、開発が完了してみると時代遅れになっている、という問題もあった。
アジャイル開発では、計画→設計→実装→テストという開発工程を小さいサイクルで回して行くのが基本。「プロジェクトに変化はつきもの」という前提で進めるため、途中の仕様変更にも柔軟に対応できるのがメリット。アジャイルは素早いを意味するが、結果的に開発期間の短縮を可能とする。ローンチしてからブラッシュアップして行けばいい、という考え方のため、開発におけるリスクを最小限にできる。COVID‑19ワクチンの開発プロセスはこれに似ている。
今後、COVID‑19は変異し続け、常に人類の脅威として存在するようになるだろう。どのようなパンデミックにも対応できるよう、少ないリスクで効果を上げる手法がより求められることとなる。
見えない空気でカバードする
ワクチンの開発の現場で欠かせないのがクリーンルームだ。
今、世界規模でクリーンルームの需要が増えているという。クリーンルーム技術の市場規模は、2021年の約52億米ドルから成長し、2028年には約83.6億米ドルに達すると予測されているのだ。
ちなみに、クリーンルームとは、空気中に浮遊する微生物や粒子、塵、エアロゾルなどの汚染物質を極力排除した環境のこと。ワクチン開発だけでなく精密機器など、さまざまな分野で用いられている。
クリーンルームの需要の高まりは、世界中のバイオ医薬品企業や製薬企業が生産能力の増強に力を注いる。医療の進化は喜ばしいことだが、これが未知のウイルスや病原菌への対抗とするのなら少し怖い気がする。
ここで、重要となるのがクリーンで安全なGMP施設をいかにして構築するかだ。
GMP(Good Manufacturing Practice)とは、「医薬品の製造管理及び品質管理の基準」をいう。
ひと言でクリーンルームといっても求められるグレードは違う。
一般的な室内よりも清潔な環境を必要とする治療室と、わずかな汚染物質が致命的となるワクチン開発現場が同じグレードではないことは、容易に理解できるはずだ。
ワクチン開発現場などでは、空気清浄環境を保持するため、例えば、グレードが異なる室の間に人の動線を設ける場合、低グレード側から高グレード側への空気の流入を防ぐため、室間に更衣室を設けるとともに、高グレード側の室圧を低グレード側より高くして精度を上げている。
とはいえ、従来、それでどれくらいクリーンになっているかを数値化されておらず、人の経験値に頼っていた。
清水建設では、GMPに準拠したクリーンルームの配置計画を効率的に立案できる3Dモデリングツール「GMP Visualizer」を開発している。このツールはGMPとの適合チェックをコンピュータプログラムで自動化するのだ。
SFの世界でウイルスから身を守る「カバード(覆われた人)」が登場したが、人類は既にクリーンルームという「カバード」を実装している。よりコンパクトなって、人間をカバード化するのは、そう遠いことではなさそうだ。
- 大橋 博之
- ライター SFプロトタイピング フューチャリスト