2021.09.27

建設的な未来(日本SF作家クラブ)

コラボレーション企画
建設的な未来

俺の鼻が異変を告げたのはその瞬間だった。すでに慣れてしまった黒潮の匂いに、別の匂いが混じっている。これは俺のよく知ってる――播磨灘の匂いだ。

咄嗟に急ブレーキをかけたもんだから、洲砂さんの自転車がガシンと追突してきた。

「ちょっと、いきなりどうし――」

「洲砂さん、すぐマウスピースを付けてください!」

「え?」

大量の海水が奔る時、音がするとは限らない。瞬きする間もなく、通路の前と後ろからイカスミのような壁が迫って来て、俺達を自転車ごともみくちゃにした。

水位がみるみる上がって、やがて天井に達する。しかし、水の動きは止まらず、俺達は手近の手すりにかろうじて掴まることができた。

マウスピースは水中での会話に対応していて、洲砂さんの声はよく通った。

「信じられない、潮流発電が始まった。私達がいるってのに!」

俺は天を見上げた。《うずしおウィンド》第三の発電システムである潮流発電機は、ウォータージェットの設備をそのまま使っている。つまり、超電導電磁石の生み出す強力な磁界の間に海水を高速で流すことで、電力を発生させる仕組みだ。太平洋では黒潮、播磨灘では潮汐流をこの通路に導いて稼働させるというのが職員の説明だったが――。

「今は午前一時、播磨灘では潮の流れが止まる『転流』が起きてる。発電できません」

「へ? じゃあ、この水流の強さは一体――?」

その瞬間、重い振動が満水の通路――いや、ウォータージェットのパイプを走り抜けて、発電所が着底したことを告げた。

「この、裁判長の木づちみたいな音――まさか私達・・・」

その震え声を耳にして、俺はこの人が陸の人間なんだと、今さらのように悟った。

「これは沈没じゃない、《うずしおウィンド》は自力で潜航したんです。ほら、この海水はきれいにろ過されてる。どこも壊れてないってことですよ」

俺は潜水漁船の実習を思い出した。この手の船はいわゆる潜水艦とは違い、船体の比重が一以下、つまり絶対に沈没しないように造られていて、潜るにはパワーをかけなければならない。《うずしおウィンド》と同じ設計思想である。

「この辺りの水深は地下十階くらいだから、水圧は三気圧になります。ちょっと息苦しいかもだけど、海底都市にいるんだと思ってください」

皮肉のつもりはなかったが、洲砂さんの緊張は少し緩んだようだった。

「発電所が潜航したのは、やっぱり漂流船と衝突しそうになったのかな?」

「・・・どうでしょう」

腑に落ちない点はそこだ。瀬戸内海の船舶管理は行き届いている。港から船が逸走しようものなら、すかさず俺のスマホがジャンジャン鳴るはずだ。

「そもそも、鳴門から未だに安否確認のひとつも来ないんだ? なら、こっちからカツ丼食わせに行ってやるっ」

洲砂さんが苦労してスマホを引っ張り出すのを、俺は静かに止めた。

「ここじゃ使えませんよ。海水は電気を通すけど電波は通さないので」

「本当だ、ナビまで使えなくなってる!」

ここに至って、洲砂さんはようやく、俺達が人間社会から孤立したことを悟ったようだ――と、その体がハッとこわばった。

「今、女の人の悲鳴が聞こえたよね?」

俺は壁に耳を寄せた。確かに、つんざくような声が長い尾を引いている。しかし――。

「これは人間じゃなくて、シャチの鳴き声です。でも変だな、イルカならともかく、播磨灘にシャチはいないはず――」

突然、通路の端から端まで、海獣の甲高い叫びが駆け抜けた。

「ヒァッ!?」

洲砂さんが、驚いた拍子に手を滑らせてしまう。俺は咄嗟に相手の腕を掴んだが、はずみで自分も手すりを放してしまった。しまったと思う間もなく、俺達は流水の中をもんどり打ちながら流されていく。

と、体が突然通路の隅に吸い寄せられた。床に開いた排水口に、海水がすごい勢いで流れ込んでいく。俺達は折り重なったまま叩きつけられた。

――違う、これは排水口じゃなく、潜航用ジェットに海水を送り込む吸入口だ。水圧が強くて体を引きはがせない。

「なるほど、海底都市の暮らしは楽しいな」

洲砂さんが憎まれ口を絞り出した。――そして、不意にがっくりとうなだれた。

「すまない、私の責任だ。こんな無茶な冒険に君を巻きこんでしまって――」

俺はギュッと唇をかみしめた。そうだ、俺達がこんなハメに陥った原因は――。

「俺の責任です。海の怖さを知ってるんだから、駅前で洲砂さんを引き留めなきゃいけなかったのに、渡りに船だと思って黙ってた。俺は海の男失格だ――てなセリフを万一に備えて録音しておきたいんだけど、スマホに手が届かなくて」

洲砂さんの青白い唇が緩んだ。

「気持ちだけで十分ありがたいよ。海賊の子孫はやさしいな」

「別に。海の男が陸の女を守るのは当たり前ってことですよ」

結局、海っていうのはいつの時代も同じで、『板子一枚下は地獄』なんである。そう思うと、急に気が楽になった。

「洲砂さん、エアタンクの残量はあと1時間あります。状況が変わるまで、できるだけ呼吸をゆっくりして体の力を抜いてください」

洲砂さんは返事の代わりに俺の手をギュッと握った。俺もそっと握り返す。人間にできることはそれだけ、静かにその時を待つんだ。

「・・・ねえ徹君、さっき時計を見ないで時刻を言い当てたよね?」

「あれは月の位置で知りました。俺は海の底にいても月が見えるので」

洲砂さんのあきれ顔は、この世で最高に面白かった。

やがて20分が経ち、40分が過ぎて――そして。

急に水の流れが止まり、体がふわりと浮き上がった。振動が壁を震わせて、《うずしおウィンド》が浮上を始めたことを告げた。

赤穂にたどり着いた俺達は、顔面蒼白の職員から《うずしおウィンド》が突然潜航した理由を聞かされた。原因は漂流船ではなく、なんとシロナガスクジラの群れが接近してきたせいだった。その巨体とスピードに、危険を察知した発電所は緊急潜航を行い、同時に天敵であるシャチの鳴き声をスピーカーで流したのだが、追い払うのに手を焼いたと言う。

「ザトウクジラならともかく、シロナガスクジラが播磨灘に現れるなんて聞いたことがない。嵐で道に迷ったか、発電所を追いかけてきたのか」

これは漁場を荒らされるかもしれないな、と俺は顔をしかめた。一方、洲砂さんはさっぱりした表情である。

「やっぱり東京湾の土地を買うのはやめだ。魚にまかせる。――ところで、徹君は漁師志望なのに、何で大学に?」

「これからの海は何が起きるか分からないから、養殖の経営を学んでおこうと思って。《うずしおウィンド》のおかげで電気代が安いし」

「へえ、その辺りのこと、ちょっと梅田で話を聞こうか」

「それは補導ですか、それとも試験会場まで送ってくれるんですか」

「さあどっちだろう」

洲砂さんはそう笑って、夜明けのパトカーに俺を押し込んだのである。

ショートショート
木立 嶺(こだち りょう)
1973年 生まれ。
第8回日本SF新人賞佳作受賞。短編の他、『次女っ娘たちの空』が長編での書籍デビューとなる。
イラスト
海野 螢(うんの ほたる)
東京都出身。漫画家。
漫画家デビュー前にデザイナーとして活動後、1998年「Paikuuパイク」にて『われはロボット』でデビュー。
1999年『オヤスミナサイ』でアフタヌーン四季大賞を受賞。
2014年、星雲賞アート部門にノミネート。
2016年、星雲賞コミック部門に『はごろも姫』がノミネート。
代表作に『めもり星人』『時計じかけのシズク』『はごろも姫』等。装画に梶尾真治『妖怪スタジアム』、ピーター・ワッツ『神は全てをお見通しである』等。