清水建設と日本SF作家クラブのコラボレーション企画「建設的な未来」は、これからの社会に起こりうる事柄に対する、よりよい未来の「建設」に向けて、私たちができるかも知れないこと、また、乗り越えた先にあるかも知れない世界をテーマにしたショートショートです。
第8話は林 譲治さんの『バベルの明日』です。お楽しみください。
第8話
バベルの明日
林 譲治
自宅のエージェントAIがインドネシアの地震を報告してきたのは朝食を終えたばかりの午前6時のことだった。日本とは2時間の時差があるから、現地ではまだ未明だろう。
私はエージェントにテレビを点けるようにいう。わざわざニュース番組だと指示しなくてもAIはそれくらいの推論はできる。
ニュースは日本のテレビ局のものだった。まだ被害状況などもはっきりしていないが、現地の様子は火災もなく、大事には至っていないらしい。画面には頂部に朝日を反射した巨大なピラミッドの姿が一瞬見えたが、キャスターは「続報が入り次第」と別のニュースに切り替える。
エージェントが上司からの着信を告げたので、受けるように伝える。リビングの大画面テレビは国内ニュースを報じていたが、その一角に上司である木場の映像が浮かぶ。
木場はアジア地区に複数ある危機対応チームのマネージャーだ。40代の日本人だが、世界中を移動しているので、日本にいるとは限らない。いまはムンバイにいるとエージェントが告げる。
「さっきのインドネシアの地震ですか? 」
挨拶抜きで尋ねた。状況から緊急事態案件だからだ。
「さすが竹村だな。察しのとおりだ。マグニチュード6クラスの地震だが、震源は比較的浅いので震源近くの震度は大きい」
「インドネシアと言うと、ムルデカ700ですか?」
木場はそれには答えず、地図データを送ってきた。震度5強のエリアにムルデカ700があった。ただもともと耐震設計を織り込んでいる日本が設計したメガシティピラミッドだけに、すべての機能が正常に稼働していた。
「うちのチームは東アジア担当ですよね。しかもメンテナンスの対象はAIシステムですよ」
「現地チームで対応できないのでこっちに話が来た」
「地震から5分も経過してないのに、早すぎません、諦めるの?」
「正確には8分だ。早いと言うけどな、バベルの不調だ。居住人口80万人の生活に直結するんだ。早すぎるもんか。ムルデカ700は勤務時間帯になれば、総人口は300万に増大する。その前に終息させなきゃならないんだ」
「朝飯前に終わらせろってことですか?」
「朝飯前だろ、竹村なら。バベルの開発者なんだからな」
「開発者チームの一員ってだけです」
「同じことさ。現地チームも精鋭だが、バベルシステムの中身に精通した人間がいない。トラブル解決は彼らに任せるとしても、トラブルの原因は専門家の力がいるんだ」
「現地の窓口は?」
「いや、現地チームは使わずにやってくれ。セカンドオピニオンって奴だ。現場だから見落とすこともあるだろ。一人でやれとは言わん。応援に近藤もつけた」
「彼女まで投入するって、そんな深刻な事態なんですか?」
「朝飯前に終わらせたいからな。2秒で快諾してくれたよ」
「彼女、何してるんです?」
「ケーキを一切れ食べていた」
* * * *
インドネシアのムルデカ700はいわゆるメガシティピラミッドの一つである。
メガシティピラミッドプロジェクトはまず東京で始まった。海抜700メートルの高さを持つこのピラミッドは居住人口だけで75万人、外部からの来訪者を含めると、300万人の人間が活動する場として設計された。
それは当初の構想にあった巨大なビルディングではなく、日本全体の国土再構築戦略の中で、コンパクトシティの雛形として建設される計画だ。
地方の経済活性化と都市機能の集約化により文化や医療サービスの質の向上がこのメガシティピラミッドにより実現されるものとされた。
そのメガシティピラミッドが地方ではなく、首都東京に最初に建設されたのは、地球温暖化により巨大化する台風や首都直下型地震などの自然災害から首都機能を守るという意味があった。ここは大規模自然災害の危機管理と復興の司令塔になるはずだった。
危機管理と地方再生を念頭に置いたこの首都のメガシティピラミッドプロジェクトの一つの誤算は、この立体都市が大都市圏に経済的、文化的発展を促すプラットホームとして無視できない存在感を示したことだ。
この巨大ピラミッドでは多種多様な民族が建設や維持管理、都市機能の運営にあたっていた。ピラミッド内は高度な情報通信システムが完備しており、雑多な人種が雑多な言語を用い経済文化活動に従事していた。
この巨大ピラミッドの中で起業し、世界規模の企業体に成長した会社はすでに五指に余る。
この東京での成功に刺激され、メガシティピラミッド第二号は大阪に、三号は名古屋に建設され、いずれも社会を変えるほどの成功を収めた。
そしてメガシティピラミッドの成功を陰で支えたのが、AIを活用した自動即時通訳システム「バベル」であった。ビル内では情報端末を兼ねるインカムさえ装備すれば、異なる言語の人間同士が自由に会話を交わすことができた。
そしてバベル自身もボキャブラリーを蓄積し、翻訳精度を日々向上させていた。
日本での成功は、当然のことながら海外の注目を集めた。すでに日本以外でも7つのメガシティピラミッドが稼働し、3つが建設中だった。ムルデカ700はそうした海外におけるメガシティピラミッドの比較的初期のものだった。
最初のメガシティピラミッドが建設されているとき、バベル開発は建設プロジェクトの一部門に過ぎなかった。しかし、これを建設し、都市として機能するに従いバベルの重要性は大きくなっていた。
メガシティピラミッドは建設されていないものの、ニューヨークやベルリンでもバベルシステムは稼働していた。
これに伴いバベルプロジェクト部門は他部門とも合同し、メガシティピラミッドのメンテナンス会社として独立した。それがいまの自分の職場だ。
私の担当はメガシティピラミッドのIT全般だが、バベル開発の当事者として、今回のように担当エリア外の仕事も任される。