私はムルデカ700の光ファイバーケーブルを通す、幅20センチのパイプを移動していた。
もちろん人間が移動できるわけもなく、ケーブルメンテナンス用のロボットに自分の視覚を同期させていたのだ。いわゆるテレワークの発展型だ。
日本にいる自分たちが東アジア地区を統括できるのは、このロボットをアバターとして活用できるためだ。ロボットは複数の種類があり、中には等身大の人形もある。会議に参加したり、手足を用いる難しい作業にはこれを使う。
自分のような仕事では、ネットワーク経由でシステムを診断し不良箇所を修正したりするのが大半だ。
だがメガシティピラミッドほどのシステムとなると、ハードウエアの不調も確認する必要がある。巨大建築物と言うより、これはもう血管と神経系をもった生物と言っていい。
だからITのメンテナンス業務でも、ハードウエアも確認しなければならない。医者が診断を下すには、患者の問診が必要なのと同じだ。
「近藤の見立てはどう?」
私は光ファイバーケーブルを移動しながら彼女に確認する。遠隔でのモニターでは、システムに異常はない。バベルは機能しているはずなのだ。
しかし、翻訳機能は止まったままだ。早朝のこの時間に活動している人間は少ないが、それでもバベルが機能しないことでのトラブルは数十件報告されていた。
「インフラ系統に異常は報告されていない。つまり異常がないのにバベルだけ停止するという異常事態よ」
近藤は建築物のいわゆるIoTの専門家だ。簡単に言えばビルなどに神経を走らせ、ビル自身に自分の不調箇所を発見させ、可能であれば自己修復し、無理なら人間に不調を訴える機能だ。
メガシティピラミッドほどの建築物となると、メンテナンス作業だけで産業が回る。
エネルギーの効率化はもちろん、窓ガラスの太陽電池やピラミッドを通過する風力は電力として回収され、居住区の排泄物や生ゴミさえ、バイオマスとして電気やガスとして資源化される。
このため近傍の小都市は、メガシティピラミッドの余剰の電力やガスで生活しているほどだ。
近藤とは今回と同様にテレワークでだが、何度か仕事を共にしたことがある。
彼女との会話はバベルを介して行われていた。いわゆる帰国子女らしく、フランス語で生活しているようだ。
彼女とは同期入社だ。研修時に私が旧友と再開した時に、バベルを使わずフランス語で話しかけてきた。その時、ケンもとっさに下手な英語で「フランス語は話せない」と返したので、それ以来、彼女とはバベルで会話している。
私はパイプを移動するロボットから一度離れた。光ファイバーケーブルの異常を疑ったのではない。インフラ系のロボットが円滑にアバターとして使えるかどうかを確認したかったのだ。動作に不備があれば、そこを攻めてゆけばトラブルの原因がわかるとの判断だ。
しかし、アバターは完璧に作動した。私と近藤を仲介する外部のバベルシステムも機能している。
つまり正常なムルデカ700の中で、ただバベルシステムだけが正常に働いていない。
だがモニターを見る限り、バベルシステムもまた、正常に機能しているのだ。
「1分間だけ、私達の会話をムルデカ700のバベルにつないでみたら? それで何かわかるかも」
「よし、1分後に」
我々は会話をムルデカ700のバベルシステムに切り替えたが、互いに返事は戻ってこない。1分後に再び外部のシステムに戻ると、近藤の声が聞こえた。
「翻訳だけができていないようね」
「地震と同時に機能しなくなったんだよな」
「ちょっと違うみたい」
近藤はデータを送ってきた。ムルデカ700が地震を感知してバベルが翻訳機能を失うまでに2分弱のタイムラグがある。
私はアバターとするロボットを切り替えた。カメラとマニュピレーターを装備した作業ロボットだ。ハードウエアの不備を確認し、調整するためにこうしたロボットも活用する。
通常は人間のエンジニアが行うが、ムルデカ700ほどの巨大な空間では移動も容易ではない。だから緊急時用にサーバールームの同じフロアにはこのようなロボットも備品として用意されていた。
ロボットはムルデカシステムのサーバールームに向かう。テロ対策で、ロボットはサーバールームの外に置かれている。ここからはゲートを通過しないと入れない。
「おい、どうなってるんだ!」
私のロボットがゲートに接近すると、保安ロボットが接近してきた。ロボットは何か警告を発していたが、バベルがないのでなんと言っているかわからない。
正常なシステムにメンテナンス用のロボットが接近し、誰何しても返答しないことに、保安ロボットはいきなり電撃をかけてきた。警告のためで破壊されるほどの電圧ではないが、センサーは一時停止した。
「きゃっ!」
視界を共有していた近藤が悲鳴をあげる。私はその瞬間、すべてを理解した。
保安ロボットが第二波の攻撃を仕掛ける前に、私は近藤に頼んだ。
「一瞬でいい、このエリアの電源を止められるか?」
「ちょっと現地スタッフの協力がいるけど可能よ」
「ならすぐやってくれ、このロボットが動ける間に!」
保安ロボットは、電撃では私のロボットが移動しないと判断したのか、物理的排除を図り始めた。完全にロボット爆弾かなにかと誤判断している。
保安ロボットの胸部に銃身が現れる。相手が人間ではないとき、保安ロボットはすぐ武器を使う。
メンテナンスロボットに武器などない。私は咄嗟にロボットが装備する工具を投げつけたが、保安ロボットはそれを一撃で撃ち落とす。照準装置の精度はずば抜けている。
そして銃身が私のロボットを捉えたとき、一瞬、エリアの照明が消え、そして戻った。
「認証番号を提示してください」
保安ロボットの言葉が、私には理解できた。そうシステムは正常に戻った。
* * * *
「バベルはあらゆる言語を翻訳する。だけど、翻訳しない言葉がある。会話を円滑にするためには、時に、訳さないことも必要だ。そんな訳さない言葉に、悲鳴や叫び声がある」
私は画面の向こうの近藤に説明する。メンテナンスロボットにより、バベルシステムの瞬電からの再起動の微調整はすでに終わった。
「それがバベルが翻訳できなくなった理由なの?」
「地震が起きたとき、ムルデカ700は震度5強の地震にも無傷だったが、揺れはしたんだ。早朝のことだ、数千、数万の人が、驚きの悲鳴や叫び声をあげた。それだけの住人があげた音声を、バベルは無意味とは判断しなかった。しかし、それらは訳さない言語でもあった。訳さない言語を訳さなければならない。バベルはこの矛盾する判断で身動きが取れなくなっていた」
「システムが正常だったからこそ、判断の間違いに気がつけなかったというわけか。何をどう判断しているか、傍で見てるだけではわからないわけね」
私は近藤の言葉に、長年の疑問を思い出した。
「そう言えば、最初に会った研修のときを覚えてるか?どうして近藤はフランス語で俺たちに話しかけたんだ?」
「だって、竹村が友人とフランス語で話しているみたいだったじゃない。だからフランス語で話しかけたの」
私はそれで疑問が解けた。近藤は大きな勘違いをしている。
「あの友人は幼馴染で高校までずっと地元だった。大学で針路はわかれたが、あそこで再会した。だからつい、地元の方言で話していただけだ。その津軽弁でね」
- ショートショート
林 譲治(はやし じょうじ) - 1962年2月 北海道生まれ。SF作家。
- 臨床検査技師を経て、1995年『大日本帝国欧州電撃作戦』(共著)で作家デビュー。
- 2000年以降は、『ウロボロスの波動』『ストリンガーの沈黙』と続く《AADD》シリーズや『小惑星2162DSの謎』(岩崎書店)。最新刊は『大日本帝国の銀河」シリーズ』(早川書房)。
- なお『星系出雲の兵站』シリーズ(早川書房)にて第41回 日本SF大賞受賞。
- 家族は妻および猫(ラグドール)のコタロウ。
- イラスト
麻宮騎亜(あさみや きあ) - 1963年 岩手県北上市生まれ。
- アニメーターを経て、1987年に『コンプティーク』(角川書店)に掲載された「神星記ヴァグランツ」で漫画家としてデビュー。
- 画集に『麻宮騎亜画集』『麻宮騎亜 仮面ライダーフォーゼ デザインワークス』『STUDIO TRON ART BOOK 1993』などがある。
- 代表作「サイレントメビウス」「快傑蒸気探偵団」「コレクター・ユイ」「遊撃宇宙船艦ナデシコ」「彼女のカレラ」他。