清水建設と日本SF作家クラブのコラボレーション企画「建設的な未来」は、これからの社会に起こりうる事柄に対する、よりよい未来の「建設」に向けて、私たちができるかも知れないこと、また、乗り越えた先にあるかも知れない世界をテーマにしたショートショートです。
第5話は井上雅彦さんの『楽園への脱出』です。お楽しみください。
第5話
楽園への脱出
井上 雅彦
その都市は「死」に瀕していた。
かつて、艶やかな肌のように輝いていた外装は無惨にひび割れ、たくましい筋肉を思わせる鋼材は朽ちかけていた。ライフラインの血管は梗塞し、情報経路の神経は麻痺がはじまっていた。都市の内臓不全は、深刻だった。
そして、今・・・。
今にも消えいりそうな淡い光がゆらめきながら灯る都市の中央部――その広大な空間には、いつしか人々が群れ集いだした。口々に祈りの言葉を唱えながら、「天」を仰ぎ見るものたちもいる。
彼らの表情や仕草から、この空間は、あたかも荘厳な大伽藍にさえ見えてくる。
「あれは、クリスマス・キャロル?」
ステンドグラスめいた円窓から中央広場の様子を眺めて、女の子が聞いた。両手で積み木を抱いたまま。「ママの本に書いてあったのと同じ?」
「窓に近寄っちゃだめよ、ロミ」
机に座ったまま、女性が言った。「さあ。こっちへ」
「とっても、きれい・・・」
ロミが言った。「ママとパパと、サンゴのさんらんを見にいった時みたい・・・」
「早く来なさいったら!」
その声の語尾が少し震えた。怖がらせてしまったのではないかと彼女は後悔したが、ロミは気にする様子もなく、窓辺を離れて、女性の座るデスクのそばへ寄り、ひとり、積み木で遊び始めた。
「だめね。・・・私が一番、取り乱してしてる。娘よりも・・・外の市民たちよりも」
女性が言うと、ワークデスクの反対側から、
「そんなことはない」
老人の声が答えた。「技術管理責任者として、ベストを尽くしてきた。けっして、親のひいき目ではなく」
「なんとか手は尽くしたのだけれど」
卓上のモニターに現れては消える数値を確認しながら、「もう・・・時間の問題かも。せめて、あの子だけはなんとかしてやりたいのだけど」
「あきらめるな、マリ」
老人が瞬いた。「希望を持て。・・・私たちがそうしたように。初めてこの世界へ進出した、私たちの先祖がそうしたように」
この世界――つまり、現在マリたちが居住する世界、すなわち、深海層に人類のベースキャンプが建てられたのは、何世代も前のこと。
輝かしい最初の開拓者たちは、海面から深海――すなわち水深200メートルを越える地点に直径500メートルの球体居住空間を構築し、のみならず、そこから海の真下の深みに向かって真っ直ぐに――水深一1000メートルの太陽も届かない上部漸深層よりも深く、下部漸深層をも貫いて――ついに到達する海底平原(水深3000~4000メートル)に建設されたファクトリーまでを垂直にリンクさせるという壮大なヴィジョンを実現させた。青い楽園のような球体都市から深海海底ファクトリーまで螺旋状に繋がるゴンドラは、さながら美しい海洋生物のようにさえ見えたという。
「あれから、何世紀も経ったのね・・・」
そう。あれから、幾世紀も、幾世代も、経過した。
現在、マリたちが居住する〈海底都市〉は、海底平原よりもさらに深淵に位置する。
水深1万メートルもの海溝内である。
これまで未発見だった海底下微生物の活動による新しいバイオ燃料、次世代型の人工熱水鉱床によって発見された新種のレアメタルの採掘に従事するためのミッションを遂行するためでもあったが、その姿は「これまでになく、新しい」都市と評された。
その独特な威容――幾つもの触手を持つ頭足類と巨大な原始鯨を混ぜ合わせたような姿をした海底都市。最先端の設備を持った施設を、艶やかな皮膚とたくましい筋肉で包み込んだ一体の巨大構造物である。それが、深海を「泳ぐ」。そして、海底を「歩く」。
かつては、先駆者たちの深海都市とリンクされていたが、さらにそこから自立――自律して――エネルギー、食料、そして酸素までもの自給自足を、海底資源のみでまかないながら――海溝内を自由自在に「歩きまわる」次世代型の都市だったのである。
この「まったく新しい科学技術を応用した」新たな深海海底都市が、独自のミッションを開始し、それを受け継いだのがマリの世代なのだった。
「それなのに・・・」
この都市は「死」に瀕している。
いまや、その「生命」を終えようとしていた。
「・・・いったい、どうしてこんなことに・・・」
すべて、地上の人々の問題だ、とマリは思う。
深海開発としてはじまった当初は、ここが「シェルター」となるとは予想していなかった。
国際問題、経済戦争、あらたなる紛争と戦禍・・・。
海上の大気は、予想数値の範囲外までに放射能汚染が進んでいた。
「今さら、地上には戻れない・・・」
なればこそ、深海層や、深海海底層のベースこそが、生き残った人類の希望だった。
だが――事態は、海洋にまで及んでいた。
遺伝子工学が生みだした生物相の変異である。
「新しい科学技術の成果が、ここまで暴走していたなんて・・・」
* * * *
最初は、微生物から始まった。
海洋汚染をもたらすマイクロプラスチックを「食べる」海洋微生物の開発と撒布。
ゲノム編集がもたらしたこの画期的な〈新種〉たちが、大量消費社会の負の遺産である海洋汚染を解決する救世主になると思われた。
しかし、それが、変異した。
「放射能の影響だという説もあるけど・・・」
彼女は呟いた。「むしろ、生命工学の暗部だわ。遺伝子工学が急速に進歩を遂げて以来、様々な用途に特化して創り出された遺伝子たちや、DNAを変異させるツールとしてだけに産み出されたDNAたち・・・実験用に創られながらも、用済みにされたこうした遺伝子たちの海洋廃棄が、大量になされていた」
「それらが生き延びて、マイクロどころか、ナノサイズまでに浸潤していたプラスチックと結びつき・・・奇怪な触媒へと変えていった・・・というわけか・・・」
「食物連鎖の蓄積。変異の連鎖・・・。海はいつしか、魔女の大釜のようになっていた。あんな怪物たちまでを育んでいたなんて・・・」
海底都市をとりまく異形の生物群。
鋭い牙。無数の鋏。のたうつポリプ。多頭のもの。人間の手首にしかみえぬ群れ・・・。
あるものは発光し、あるものは電気を帯び、あるものは無数の貪欲な顎を開いて・・・。
それらは、貪欲に都市を浸食していく。
海底に横たわる瀕死の鯨に取り憑いた無脊椎動物の群れのように。
人喰いアメーバに罹患した肉体のごとく蝕まれていく外壁。
そればかりか、発電設備も、電子情報系も、淡水補給の逆浸透膜も、酸素生産システムまでも・・・弱った都市を、異形の深海生物群は食い荒らしていく。
「死は命あるものの定めだ。天寿というものだ・・・」
老人は言った。「・・・だからこそ、私たちは――」
その時、巨大な揺れが来て、老人の言葉を遮った。
凄まじい地響き。
同時に、ステンドグラスめいた窓が割れた。
「また・・・海底地震・・・!」
マリが叫んだ。「・・・この前のよりも、ずっと大きい」
中央広場の人々が騒ぎ始めた。
頻発する地殻変動も、都市を大きなダメージに陥れていた。
前の地震以降、同じ規模の都市との連絡が絶たれていた。
そこには、少女ルナの父親である、マリの夫も勤務していた。
――3人で・・・珊瑚の産卵を見にいったのが、家族で過ごした最後の思い出になってしまった・・・。
その後、二つの「歩く都市」が再接近したこともあったのだが、この時は、海底無線を通して業務上の連絡を交わしただけ。
あれが、最後とは思わなかった。
消息を絶った都市の消滅は、確定的だった。
そして、それ以来・・・この海域に残された海底都市は、現在マリが父と娘とともに住む此処だけ・・・此処が、最後の城となっていたのだ。
またも、地響き。
今度は、大きな揺れを伴った。
「地震じゃないかもしれん」
老人が言ったのと、人々が、中央に設置されたスクリーンを指さすのとは、同時だった。そこに拡がる映像――陽も射さぬ外の海底の情報を、あたかも光の中で肉眼で可視しているかのように処理された、その映像を視た人々は、口々に恐怖の悲鳴を発していた。
デスクのモニターを外の画像に切り替えて、それを見たマリも――絶句した。
途方もない異形・・・。
見たこともない巨大な「怪物」が、海底の大地を揺るがして、こちらに近づいてくるのだ。
都市の住民たちはパニック状態だ。
「あれは・・・伝説の・・・」
マリも思いだした。作業員たちの間で伝説――というよりも、怪談的なフォークロアとして語られていた巨獣。
ゆっくりと近寄ってくる。
幾つもの触手を持つ前世紀の怪奇小説にでも出てきそうな不気味な姿。
その巨大な触手が――今まさに、マリたちの都市につかかみかかろうとした、その時。