ぶつからない自動車と免許返納
自動運転とは、平たく言えば、ぶつからないクルマで交通事故のない社会にするということだろう。言うは易く行うは難しなのだが、いま、最先端の叡智と技術が結集して、目を見張る成果をあげていると、その動向に疎いわたしでもそれなりにそう感じる。
羽田空港のバス乗り場で、変な動きをする運転手のバスを見かけた。ハンドルを握っているようで、マジックショーのように触っているのかいないのかという手つき。そうか!これが自動運転というものなのか。ニュースなどで見知っていたそれを、この目で見た初めての経験だった。
首都高を走るリムジンバスのなかで、完全自動運転が実現し、それが社会的に標準化されたとして…と妄想スイッチが入り、あることが脳裏をかすめた。
認知症などのメディカルチェックはとうぜんやるとして、大丈夫であれば免許はそのまま更新されるのだろうか。80歳、90歳、いや100歳になっても、運転(自動運転車では運転というのだろうか。運転する主体は誰かとか考えだすと自動運転という言葉自体が撞着語法にも思えるし・・・)できるのだろうか、と。
珍しく合点がいったお役所資料
まず、国交省、自動走行ビジネス検討会で検索してみてほしい。(端から恐縮だが、国交省では「自動走行」である。しかし、準拠する米自動車技術会の基準を「自動運転」と訳している。余談ながら車線変更を自動にする「自動操舵」という用語もある)
平成27年から開催されており、各回の議事要旨や中間とりまとめ等々がオープンにされているなかの平成29年3月14日にリリースされた『自動走行の実現に向けた取組方針』。これは、必読!お役所の構想や展望で初めて「役に立った!」。おかげで、収集した情報の理解が格段にアップしたのだ。
ヨーロッパでもそうだが、日本では、アメリカのSEA(米自動車技術会)の基準に基づいて自動運転の性能基準を定めている。現状の自動化されていないレベル0も含めてレベル1から5までの6段階に分けられているのだが、現状は、けっこう普及しさらに進化している自動ブレーキや、コマーシャルでも見かける自動操舵、自動駐車などを考えると、レベル2から3への過渡期にあるのだろう(と、素人は思う)
わたしが、懸念というかもやもやするのは、レベル4の高度運転自動化、レベル5の完全運転自動化において「安全運転に係る監視、対応主体」は運転者ではなく、「システム」になっていることだ。(レベル3ではフォールバック中は運転者としている)
自動車を操るのは誰?所有者はわたしだが、運転するのは誰?もう、哲学の問題である。すでにAIは、哲学や倫理学の対象だ。自動運転の今後は、たぶん量子コンピュータの進展にともなうAIのディープラーニングの高度化が握っている。レーダーやセンサーは、哲学の認識論の領域とも言える。
国交省の自動走行ビジネス検討会のメンバーに哲学者はおろか社会学者、心理学者など人文系は一人もいない。ビジネスと謳っているから仕方ないが・・・。
便利になることで人間はもっと賢くなっていくのだろうか?
自動運転の行きつく先は、バラ色なのだろうか?あたまでは、国交省のペーパーを、ふむふむなるほどねーと読んだが、一方で、高速道路上でならそれなりにわかるが、昨今の公共インフラの老朽化を見ると、とうぜん道路とて例外ではないゆえに、疑念というか不安が芽生える。
「国」道はまだしも、地方自治体が管理する道路はどうだろう。首都圏ではあまりないが、予算が潤沢ではなく人口の少ない地方、それも中山間部になると、けっこうヒヤヒヤドキドキする道(あえて道路とは言わない)がある。まさにガタガタ道。標識が倒壊寸前。生い茂る木々が垂れ下がり、アスファルトの裂け目からは雑草が繁茂。倒木や落石もゴロゴロ。『ポツンと一軒家』(朝日放送テレビ制作)で見慣れた光景。こんな道を走るのを、自動車に全面的に白紙委任していいのだろうか、と。
アシナシトカゲと言う、見てくれはヘビそのもののトカゲが北米にいる。生存に必要がないから、四肢をなくした。これも進化である。究極のミニマリズムである。積極的にその生き方を選んだ。しかし、人間は、それを不便と言い募り、「退化」と神でもないのに判断を下す。
- 大槻 陽一
- 有限会社大槻陽一計画室 ワード・アーキテクト