2020.03.16

ConTECH.café

スマートシティとダイバーシティ

東京は「後期高齢者」である

考えようによっては、東京という都市も、1945年を区切りとして大きく「生まれ変わった」、いわば新生・東京。人間でいうと当年とって75歳だ。まだなのかもうなのかは別として、国の基準に従うと後期高齢者である。とうぜん、人間同様に、至る所にガタが来ていることは疑いようがない。

戦後75年の東京のまちづくりをざっくりとみると、まさに、人生の歩みそのものだ。

エポックは多摩ニュータウン。高度経済成長を力強く支えた人が、ここで、家庭を築き、子どもを育てた。同様に、私鉄沿線には、続々と大規模団地が生まれ、東京は、全国から若者を中心に大量に吸引していく。東京オリンピック、GNP世界第2位、大阪万博と、青春の蹉跌はまったくなく、その成長拡大はとどまることを知らなかった。(そういえばその頃、「新陳代謝」で都市のあり方を考えようとする黒川紀章などによるメタボリズムという建築のムーブメントがあったっけ)

イケイケどんどん。怖いもの知らず。しかし、いくら体力があり余る青年とはいえ、働きづめでは、疲労は抜けず、蓄積していく。確実に、内臓やメンタルはダメージを受けているはずなのに、さしたる自覚症状がないから、まだまだいけると慢心する。24時間戦えますか?みんなが、声を張り上げイエッサー!そして、1991年から1993年にかけてバブル経済は、弾け消えた。もう40代後半になっていた。

日本全体が自信満々の鼻っ柱をへし折られ、がっくりうなだれるばかりだったが、ようやく「時ぐすり」が漢方薬的に効きはじめ、冷静に身の回りを見つめ直す。(それだけ、年相応の大人にはかろうじてなっていたわけだが…)

すると、風景の激変にやっと気づく。言葉を失う。かつてあれほど輝いていたニュータウンがいつの間にか色彩をすっかり失ってオールドタウンに様変わりし、団地には、都心なのに多くの買い物難民が。賑わっていた周辺の商店街はシャッター街。公園からは、子どもたちの声が消えていた。

そして、「失われた20年」に悩み藻掻き、その日が突然やって来た。すでに高齢者に仲間入りしていた2011年3月11日。潜在していた数多の課題が一気に噴き出した。健康診断で言えば、あらゆる数値がHで、すぐに精密検査と治療を要すると赤字で所見が書かれていた。

エネルギー問題に少子高齢化、社会インフラの老朽化、地域コミュニティの弱体化等々。それらは、国連が掲げるSDGsの17の目標の多くと見事にリンクする。

そしていま、その処方箋として注目され期待されているのが「スマートシティ」だ。

IoTの都市拡大版+AI+ロボティクス+自動運転=スマートシティ?

すでに、グーグルはカナダのトロントで着手。地元住民の反対などで大幅な見直しを迫られているようだが、新しい街をつくる社会実験である以上しかたがない。ファーウェイも本拠地の中国・深圳やサウジアラビアで現在進行中である。

「都市の抱える諸課題に対して、ICT等の新技術を活用しつつ、マネジメント(計画、整備、管理・運営等)が行われ、全体最適化が図られる持続可能な都市または地区」と国土交通省は定義する。国がいま積極的に推進するSociety5.0に基づいたまちづくりと言っていいだろう。

ネットで、世界で展開中の事例の映像を見てみた。まさに先端技術の壮大な実験場だ。「新しい街」と言われると、102年前に白樺派の武者小路実篤が「人間らしい生活をしたい」と宮崎で始めた「新しき村」(いまも埼玉県で続いている)や宮澤賢治の「イーハトーブ」をまず連想してしまうわたしは、CGを駆使したSF映画のようなイメージ図を見て「地べた、ないんや」と思わず独り言ちた。唐突だが、ちょっと脱線のクエスチョン。「今日あなたは、土のある地べたを歩きましたか?」。

そして、思った。街にとって「ダイバーシティ」ってなんだろう、と。新しい街にとって「カオス」や「影(陰・闇・暗がり)」は排除すべき夾雑物なのか、と。

そろそろワクワクする未来図、見たいなぁ

「どうしても理解できない他人や、絶対に仲良くできない敵対者も必ず存在するのが多様な社会」であると、地球流体力学者の酒井敏さんは『京大的アホがなぜ必要か』(集英社新書)で力説する。そんな多様な社会を受け入れようと思ったら、そうした人の存在にも耐えなければならない。しかし、それは自分だけが耐えているわけではなく、お互い様なのだ、と。

社会実験とは、本来、こうした多様性を織り込んだリアリズムに基づくものだ。

ダイバーシティの対義語は、ユニフォーミティ、つまり画一性。ダイバーシティを「千差万別」とわたしは訳したい。なぜなら、相違点の意味もあるからだ。金子みすゞの言う通り「みんなちがって、みんないい」のが社会の常態なのだ。つまり多様で混沌が本来なのだ。

もし「住民になりません?」と言われたら。「うーん、やっぱり、いいかな」。

なぜって?いままで、天国を描いた絵で感動したことがない。どうしても中世末期ネーデルランドのヒエロニムス・ボスとか日本の歌川国芳や河鍋暁斎の地獄図に、ゾクゾクっときてしまう天邪鬼なわたしなのである。

大槻 陽一
有限会社大槻陽一計画室 ワード・アーキテクト