友だちになれると、いいな
AIに仕事が奪われる、と感じたことはない。40年にわたり「普通」のコピーライターを曲がりなりにもその看板を下ろさずにやってこられたわけだが、昨今のセンセーショナルな「この仕事が消える!」といった記事を見かけても、情報として読むだけで、自分はどうかといった当事者的な関心はまったくなかったし、いまもない。
それはたぶんに「知らぬが仏」だったからだと思う。余談だが、このことわざにつづきがあることをご存じだろうか。知るが煩悩。あるいは、知れば煩悩。ちなみに対義語は、知は力なり!
AIについて勉強する前のわたしのAI観はせいぜい「膨大なデータを蓄積し、それをもとに超高速の計算やデータ処理をやってのける確率と統計が超得意なソフトウェア」といったレベルであった。教師あり学習から教師なし学習へと発展し、いま人間の脳を模倣したニューラルネットワークに基づくディープラーニングの段階まで進化していると聞いても、根が天邪鬼だから、「でも、それって人間の脳を再現できたわけではないよね」と茶々を入れてしまう。
まずもって、いまだに「人工知能」の知能(Intelligence)にひっかかりを覚えている。だから、あくまでも人間の指揮命令下「あたかも知能があるかのようにふるまっている」から人工をあえて冠しているのだろうが、ルンバもAIと呼べるなら、もうルンバは知能なのか、それともいつ知能になるだろうかと、ついつい屁理屈をこねてしまう。
ついでに屁理屈をもう一つこねると、人工知能とは言うけど、人工心(理)とか人工意識って言わないよな。人工知性とも言わない。なぜ?やっぱり、機械は機械、だよね?
アナログという知性
これが、コピーライターの思考特性である。こうした屁理屈は、たぶんマニュアル化できない。カッコつけた言い方をすると、人間独自のアナログそのものの知性である。
それをある人は、創造力とかクリエイティブと呼んでいるのだ。とうぜん、感情を持たないAIは、たぶん永遠に辿り着けない。だから、わたしはもうしばらく、コピーライターをつづける。もちろん、発注がある限りという前提条件付きでだが。
AIを敵対視するとか危険だから怖いとか、AIと無縁に過ごしたいといった気はさらさらない。できれば、友だちになりたい!これが本音というか、希望だ。
なぜなら、人間がかないっこないAIの圧倒的なデータの記憶量とそれに基づく正確無比で安定したアウトプットでアシストしてほしいのだ。広告コピーやネーミングのビッグデータ。
たとえばネーミング作業。本来はAを考えたら、切り口のまったく異なるB、C、D…となっていくのが理想である。だが現実は、Aのダッシュ、ツーダッシュ…とバリエーションばかりしか浮かばない時がけっこうある。これが、つらい。お先真っ暗で、出口見えず。
いわゆる「行き詰まる」状態だ(わたしは決して「煮詰まる」を使わない。最近は、誤用が多数派になったため、辞書でも「行き詰まる」の意味でも公認されているが)。
膨大な多言語でのシソーラス。それも、弁理士チェックがなされたもの。これがあれば、鬼に金棒、水面にアメンボなのだ(あえてこんなダジャレを書いたのも、AIには望みえないからだ)。それも、書いているその場で、チェックが可能なので、仕切り直しとかがなくなる。
『赤毛のアン』ぜひご一読を
こうした共存共栄、あるいは相互補完が、人間とAIの望ましい関係ではないだろうか。
『赤毛のアン』。書名は知っているが、読んだことのある男子はどれくらいいるだろう。『赤毛のアン』は、コピーライターにとって、コピーの教科書的な読み方ができる。
たとえば、アンが駅からグリン・ゲイブルスに向かう馬車の上から目にする林檎の並木道。思わずアンは「歓喜の白路」(村岡花子訳)と名付ける。住民はただ一般名詞で並木道と呼んでいたわけだが、アンはそう名付けることで、そこを自分のお気に入りの世界へと変えた。固有名詞の馴染みの場所にしたのだ。ネーミングの機能とは、そういうことである。他人事を自分事にする。それによって、多くの人が信頼し愛顧するブランドになる。ちなみに原文は、the white way of delight。素直に訳せば、喜びの白い道。やっぱり、古風だが村岡花子訳がいいなぁ。
最後に蛇足。こうしたAIのアシスタントとともに、生身の人間のアシスタントがいれば、申し分ない。滝沢カレン。彼女の日本語力は、とにかくスゴい!無意識に陳腐化しているわが語彙に容赦のない脱臼をかましてくれる。詩一本で飯を食えている唯一の偉大な詩人、谷川俊太郎がベタぼれなのは、よーく、わかる!
- 大槻 陽一
- 有限会社大槻陽一計画室 ワード・アーキテクト