清水建設には美術館や博物館に向けたソリューションとして、収蔵品に悪影響を及ぼすコンクリートからの放散アンモニアを低減・対策する技術があります。この技術は長年にわたって確立されてきたクリーンルーム関連技術が活用されたものです。今回はその技術の系譜を追ってみましょう。
産業用・医療用クリーンルームの時代を経て蓄積された技術
1980年代、我が国で半導体産業が盛り上がった時期に、半導体製造施設を新設する動きが活発化しました。半導体の製造に欠かせないのがクリーンルームの存在。クリーンルームとは空気中に浮遊する微粒子や微生物を一定のレベルに抑え、その清浄度を維持する機能を備えた部屋のこと。この場合の微粒子とは、肉眼で確認できる限度の1/100程度のサイズとなりますが、それでもトランジスタ間の配線がナノメートル単位へと微細化が進んでいる半導体にとって、その混入は致命的になります。
こうした極小サイズの物質の管理を要する施設の建築には、相応の技術やノウハウが必要となるため、清水建設技術研究所でも研究開発のための施設を用意しました。1984年に開設されたクリーンルーム実験棟、その4年後に開設されたウルトラクリーンルーム実験棟、2007年に建て替えられたクリーンルーム実験棟がこれに相当します。さらに時を経て、工業用クリーンルームでは空気中の分子状・イオン状物質の濃度低減への要求も高まるようになっていきます。
美術館・博物館向けソリューションへの展開
これら、より高度化したクリーンルーム関連の技術開発に携わってきた研究者が田中です。彼は学生時代に薬学を専攻し、製剤化技術の研究を続けてゼネコンに入社したという、少々変わったキャリアを持つ研究者。
「入社後は製剤化技術を活用したセメントの高品質化などに取り組み、1995年頃からクリーンルームの分子汚染対策の仕事に関わるようになりました」(田中)
クリーンルームには「異物を発生させない、持ち込まない、除去する、管理する」の4原則があり、これらを遵守するための要素技術として、田中は汚染物質の発生量が少ない材料の検討やその評価方法の確立、汚染物質除去に役立つケミカルフィルタの開発など、数多くの研究開発に関与し、大きな貢献を果たしてきました。これらの要素技術がコンクリートからのアンモニア対策へと発展していったわけです。
初めて要素技術を美術館・博物館に適用したのは1999年頃。その頃は都内の美術館の現場からの要請で、材料検討や空気質測定など、個別の対応を行っていたといいます。
「2018年の東京国立博物館収蔵庫工事にむけた提案のあたりから、いろいろな要素技術を組み合わせてこんなことができるというシナリオを提示しました。」(田中)
そしてこれがアンモニア低減・対策ソリューションのメニューとして整備する契機になったのです。
クリーンルーム技術領域の拡大に応じて集結した次世代研究者たち
以来、美術館・博物館向けのアンモニア低減・対策ソリューションは「材料のアウトガス評価・選定」「低アウトガス材料の開発・展開」「精密環境測定」「ケミカルフィルタによる汚染物質除去」「濃度シミュレーション」の5つを主軸にメニュー化され、実績を積み上げていくことになります。そしてこれを継承し、2022年10月にオープンした軽井沢・安東美術館の案件で力を発揮したのが冨田、矢野といった次世代の研究者たち。彼らはクリーンルーム技術の拡大と高度化や、再生医療やナノテク関連など技術研究所の業務領域の広がりに応じて、建築・土木とは無関係な分野から技研にやってきた人材です。
冨田は田中と同じく薬学を学び、薬理学の大学教員時代に田中が書いたという募集要項を見て入社。当時、実験棟内に再生医療実験室S-Cellラボができるなど、再生医療やナノテクといったクリーンルームの技術を応用する技術が花開こうとしていた時期でもありました。
「ゼネコンなのに、建築土木分野ではなく、自分がこれまで関わってきた『細胞培養ができる人』という募集要項を見て、これはおもしろそうだと思ったことがきっかけです」(冨田)
実験助手としての募集だったにもかかわらず、研究員として採用され、4年目を迎えます。
矢野は大学で化学生命工学という先端分野を学んだ研究者。田中がカーボンナノチューブ材料の研究開発を通じて知己を得た大学教授を通じ、一本釣りのような形でスカウトした人材です。もともとは材料化学を専攻していましたが、物理など他分野への興味・関心も旺盛でした。
「化学は物質を構成するごく小さな単位の化合物を扱う学問。セメントも空気質も要素分解していけば化学に還元されます。就職はいわゆる化学メーカーにこだわらなくてもいいと考えていたところに田中さんからお話をいただき、入社したという経緯です」(矢野)
磨かれ、発展し続ける技術
美術館・博物館向けのアンモニア低減・対策ソリューションは、メニュー化されているとはいえ、工事内容や工期、現場に合わせたカスタマイズが不可欠。現在は田中が開発した要素技術を、冨田と矢野がブラッシュアップしつつ案件に応じてフィッティングして展開しています。
たとえば軽井沢・安東美術館では、工数もコストもかかるため月に一度程度しか実施できない「精密環境測定」のブランクを埋められるよう、より簡易で現場の人でも扱えるようなアンモニア検知管を用いた測定手法を編み出しました。これは化学に長じた矢野が提案したものです。
大学教員だった冨田ですが、ゼネコンでの仕事に違和感はないと話します。
「薬学では環境中の化学物質が人体にどのように影響を及ぼすかを研究する領域もあります。今回は影響を考慮する必要のある対象が人体から美術品に変わったものと認識しています。またアンモニア対策と並行して、健康な人には影響がない室内の微量な化学物質が、肺や皮膚疾患などを持つ人に影響を与える可能性について研究も進めており、結果が出はじめています。異分野に見えるかもしれませんが自分の中では地続きなのです」(冨田)
また、矢野は多分野の博士号を持つ研究者が集結する技研の環境を刺激的だといいます。
「たいていのことなら同じフロアにありとあらゆる分野の専門家がいて、すぐに話を聞いたりアドバイスをもらうことができます。それに化学メーカーでは『施工性』や『作業性』を気にする発想がなく、せっかく開発しても誰にも使ってもらえない“寂しい技術”になってしまいがちですが、ここなら現場まで見据えた技術開発ができる。それはやりがいのあることです」(矢野)
田中がベースを確立したクリーンルーム関連の技術は、冨田や矢野といった次世代の知性によってさらに磨かれ、さらなる発展を続けています。