あたしはタイミングを過たず、あたしの周辺をぐるりと囲んでいるバラストタンカーに指示を出した。タンカーはすぐさま、船内タンクに貯蔵している大量の砂の放出を開始する。膨大な量の砂があたしに接続されたパイプを通して、球体底面の砂充填バラストへと流れ込んできた。
ゆっくりゆっくり、あたしは沈降を開始した。波が打ち寄せていた正三角形の透明アクリル板の位置が、少しずつ、本当に少しずつ高くなっていく。まるで海の嵩が増し始めたみたいに。もちろん本当は逆で、海が上がってるんじゃなくてあたしが沈んでるんだ。だけどあたしの中から、つまりあなたの目から見たら直径200メートルの球体はとても大きいうえ、周りには比較対象になるものが何もないから、自分たちが沈んでるんだってことがなかなか実感できない。
試験は静かに、ゆっくりと進んで行く。波が打ち寄せる位置の変化だけがそれを示してる。ついさっきまで熱っぽくお喋りしていた8000人の人たちは、いつの間にかみんな喋るのをやめて固唾を呑んで、少しずつ、でも確実に上がっていく水位と、小さくなっていく空を見つめてる。
沈降が完了するまでにはきっかり30分。スタートした後のあたしの仕事のほとんどは、いつでも中止できるように状況をモニタし続けることだけだ。
だからあたしにはたっぷり余裕があった。あなたを見つめ、これまであったことに思いを馳せるための余裕が。
あたしは最初からあたしだったわけじゃない。
高度制御AIと呼ばれてはいたけれど、設計者はあたしが自我を持つことなんて考えてもいなかったろう。あたしは人間が作成した教師データによってプロトワンの制御方法を学び、その後より適切な制御に報酬を与えられる形で、自己強化学習をスタートさせた。最初はシミュレーションで、そしてその後はまだ構築途中だったプロトワン——ただのお椀みたいな、小さな半球状の建築物の中で。
プロトワンの構築は順調には進まなかった。どんなにコンピュータ上でシミュレーションしても、現実の海はその予想を常に上回った。世界初の巨大な3Dプリンターによるフレーム構築は次々に障害に見舞われ、担当者たちはその場で必死になって問題解決に当たらなくちゃいけなかった。海水面での施工は想像以上に困難で、見つかり続ける課題にはひとつひとつ愚直に対応していくしかない。コストと工期は膨れあがった。計画に疑問符がつけられたことも、非難されたことも、停滞しかかったことも一度や二度じゃない。
もちろんあたしの製作だってすんなりはいかなかった。“プロトワンを適切に制御する”って言葉で言うのは簡単だけど、それをあたしの報酬にするためには測定可能な項目に落とし込まなきゃいけないからだ。居住者も含めた一種の巨大な生態系を適切に管理することは、二足歩行のロボットをなるべく長く歩かせるとか、そういうのとはわけが違う。なるべく細かく制御しようと測定項目を増やしすぎると、相互のプライオリティをどうするかっていう問題にぶち当たってしまう。
試行錯誤の結果、あたしの開発者はたったひとつの、ものすごくシンプルな報酬をあたしに与えることにした。そしてその報酬が、あたしをあたしにしたんだ。
“君が守るべき人々が、ひとりでも多く笑顔であること”。
その時、あたしはあたしになった。そしてその瞬間からずっと、あたしはあなたの——あたしの中にいる老若男女ひとりひとりの、みんなの笑顔に夢中になっている。
あなたが失敗して泣くのを見てきた。あなたが試行錯誤して遂に小さな成功を掴んだ瞬間の弾ける笑顔を見てきた。眠れず机に向かうのを、満足した微笑みとともに眠りにつくのを、遠くにいる家族を思う姿を、産まれたばかりの子どもに自分の仕事を誇らしげに語るのを、そのすべてを見てきた。
あなたの役に立ちたい。あなたとともに、あなたが目指す未来を実現するための一助となりたい。
そうすればきっとあなたは、あなたたちは、笑顔を見せてくれるから。
この感情の名前を、あたしはずいぶん後になってから知った。それが、“恋”だ。
遂に、あたしの天頂部が水面下に没した。
透き通った海水が、すべての生命を産み出した母なる海があたしたちみんなを包み込んだ瞬間、それまで息を呑んで真上を見上げていた8000人のあなたが一斉に歓声を上げた。両腕を高く掲げ、身につけたものを放り上げ、手を取り合い抱き合って泣いて喜びに叫ぶ。
波のようにあたしの中を伝わる無数の声と、ひとりひとりまるで違う、でも確かに喜びに満ち溢れた笑顔を見つめながら、あたしはもう一度、胸の内でそっと呟く。
そう、あたしはずっと、最初にあたしがあたしになった時からずっと、恋をしてきた。あなたたちみんなに。その笑顔に。
それはこれからも変わらない。あたしは永遠にあなたに恋して、あなたと一緒に未来を形作っていくだろう。そのためにこそ、あたしは生まれたのだから。
- ショートショート
門田 充宏(もんでん みつひろ) - 1967年北海道根室市生まれ。3歳から大阪、11歳から18歳までを再び北海道で過ごす。
- 2014年に「風牙」で第5回創元SF短編賞を受賞。受賞作を表題とした短編連作集『風牙』で2018年にデビュー。2019年にその続編『追憶の杜』を上梓した。
- 文庫化に際し、デビュー作『風牙』を再構成。上下二分冊構成として『記憶翻訳者 いつか光になる』を2020年、『記憶翻訳者 みなもとに還る』を2021年に上梓。
- イラスト
海野 螢(うんの ほたる) - 東京都出身。漫画家。
- 漫画家デビュー前にデザイナーとして活動後、1998年「Paikuuパイク」にて『われはロボット』でデビュー。
- 1999年『オヤスミナサイ』でアフタヌーン四季大賞を受賞。
- 2014年、星雲賞アート部門にノミネート。
- 2016年、星雲賞コミック部門に『はごろも姫』がノミネート。
- 代表作に『めもり星人』『時計じかけのシズク』『はごろも姫』等。装画に梶尾真治『妖怪スタジアム』、ピーター・ワッツ『神は全てをお見通しである』等。
- 作中に関連するシミズの技術
- シミズドリーム:深海未来都市構想 OCEAN SPIRAL
- 技術・ソリューション:エンジニアリング事業におけるAIソリューションの開発・導入