「ああ、私が火星人だ」
第2キャンプで出会った火星人は、トレーニングマシンの前で「はじめまして」と握手をしたあとにそう言った。
「はじめまして」と僕は答えた。
「火星人」はエドガー・レビンという名前で、ボストン大学のジャージを着た190センチほどの大柄な中年男性だった。感じのいいアメリカ人で、地球には妻と高校生の娘がいるそうだ。フロリダで生まれ、学生時代にボストンに移り、それからずっとボストンで暮らしていたらしい。遠い先祖がドイツ軍として戦争に参加したことを除けば、これまで一家はアメリカで地道に、目立たず暮らしてきたという。6年前から植民化計画に携わっており、今は「火星運河計画」という100年越しのプロジェクトの責任者だと言った。
僕はまず、「いつから火星人なのですか?」と聞いた。レビンは「30日ほど前だ」と答えてから、「いや」と首を振った。
「200年前、という方が正確かな」
「どういうことですか?」
「私が火星人として誕生したのがおよそ200年前で、エドガー・レビンと同化したのが30日前だってことだ」
「30日前に何があったのですか?」
僕はさっぱり意味がわからないままそう聞いた。
「昨年、火星人の有識者で会議があったんだ。私たちの星に住みつこうとしている地球人たちの処遇をどうするべきかね。私は共存派の一員で、彼らの移住をサポートしようと各所にかけあっていた。今年、自然災害が少なかったことや、フロンガスで大気圧が上昇しているのも、すべて共存派の活動の結果なんだよ」
「そういうことだったんですか」
僕が驚いたのは、レビンがその話をするときの雰囲気だった。何かを演じているようにも感じられなかったし、ふざけている様子でもなかった。久しぶりに会った友人に近況を報告するかのように、あくまでも事実を淡々と振り返っているような感じだった。
「反対派との交渉は最後まで揉めた。結局、私が地球人の考えを調査することになり、本人の了承のもと、エドガー・レビンの体を借りたというわけだ」
「そういう経緯だったんですね」とうなずきながら、僕は記事の構成を考える。少なくとも編集長を納得させるだけのネタにはなりそうだ、と感じる。
「レビンが進めていたダムの建設計画はどうなるのですか?」
「ダムではなく、運河だよ」とレビンは答えた。「200年前、火星には運河があったんだ。私たちはそれを再建築するわけだ。計画は私が責任を持って進めていくよ。もちろん火星人としての立場も含めたものになってしまうがね」
「それだったら安心ですね」
一時間ほど話を聞いたところで、活動員が慌ただしく通信を始めた。基地周辺に「風」が吹くかもしれないということで、レビンに続きを聞く約束をしてから、僕たちは慌てて第2キャンプから去った。
「風」はそれほど強くなかったけれど、3日間止まなかった。僕はその間基地から出ることができず、編集長と第一弾の記事の修正を繰り返していた。
再びレビンに話を聞きにいく前日の夜、第2弾の原稿を書きながら、僕はあることを思い出した。火星人の記事を書くために日本から持ちこんだ大量のデータの中に、運河に関するものがあったような気がしたのだ。
探していたものはすぐに見つかった。「火星運河説論争」というものだ。
19世紀の終わりごろ、一部の天文学者の間では火星に運河が存在すると考えられていた。その根拠は、当時の望遠鏡から観測された火星に張り巡らされたグリッド状の巨大建築にあった。その運河は地球から観測できるほどの大きさで、地球上のどの運河よりも大きかった。しかも、数時間ごとに形が変わることもあった。火星にはこれほどの巨大建築を変形させられるほどの技術があるのだ。それゆえ、このような高度な建築ができるのは知的生命体に違いない、と考えられていた。つまり火星人は想像力の産物ではなく、観測結果から演繹されて生みだされたのだ。
これはオカルトや陰謀論の話ではない。当時の科学者たちの真剣な話だ。科学者たちは観測された運河をもとに、火星の詳細な地図を書いた。運河にはそれぞれ名前がつけられ、川や湖にも名前がついた。その形や技術力から、火星人の生活を推測した者もいた。
フィクションに火星人が登場するようになるのもそのころだ。ウェルズやバロウズが火星人の話を書いた。こうして人々は火星人の存在を信じるようになった。
翌朝、質問リストを整理しながら移動ユニットの貸し出し申請をすると、第2キャンプから通信が入った。通信の相手はレビンだった。
「すまない、私はもう火星人ではなくなった」
挨拶もなく、唐突にレビンはそう言った。
「どういうことですか?」
「私の中にいた火星人が、昨晩出ていったんだ」
「理由はわかりますか?」
「わからない。もしかしたら共存派が敗北したのかもしれない。もしそうであれば、大変なことになる。反対派が私たちに何をするのか、想像もつかない」
「それはまずいですね」
「とにかく私はもう、君の質問に答えられない」
「元火星人の話を聞けるだけでも貴重ですよ」
「それならいいのだが、もはや私は火星人を代表する立場ではない」
200年前、大真面目に議論された「火星運河説」は技術の進歩によりあっけなく退けられた。様々な原因があるようだが、大まかに言えば望遠鏡の精度が上がったことにより、観測された火星のグリッドが目の錯覚だと判明したのだ。精度の低い望遠鏡では、細かな点と点の間に線が見えてしまう。その錯覚によって、天文学者たちは「運河」を、そして「火星人」を錯視したわけだ。
レビンは「運河」という言葉にこだわっていた。なぜなら、かつて存在した「運河」が、火星人を生みだしたからだ。今年になって、植民化計画を進める地球人にとって追い風となる事態が続いた。「風」が吹かず、地震が起きず、大気圧が上昇した。その原因を求める心が、200年ぶりに火星人を生みだしたのかもしれない。
可能性は三つだ。
レビンが正気のまま火星人を演じている可能性。レビンの頭がおかしくなった可能性。そして、本当に火星人が存在する可能性だ。
僕はぼんやりと考える。今僕たちが信じていることだって、もしかしたら「火星の運河」なのかもしれない。目に見えている現実が、大きく間違っていたとがわかる日も来るだろう。しかしその間違いが、何かを生みだすこともあるのだ。「火星人」はそうやって誕生した。
僕のミッションは、火星人を見つけることだ。結果的に見つけることができなかったとしても、見つけようとした記録を残さなければならない。
レビンの話は記事になる。「火星運河説論争」の話も含めれば、数回分は稼げるだろう。だが、僕はこれから7ヶ月も火星に滞在することになる。「元火星人」の話だけで、連載を引っ張ることができるだろうか。
なんとかなるさ、と僕は思う。もし編集長に怒られることがあっても、地球からは8000万キロ離れている。彼の怒りが届くのには光の速さでも5分かかる。
移動ユニットの申請が許可され、減圧室で着替えを終えると、周囲に音のない世界が広がった。窓の外に広がった星空を見ながら、200年前の科学者たちが描いた地図を思い浮かべる。僕の目の前には巨大な運河があった。川には水が溢れ、タコ足の人々がそこら中を歩いていた。
僕はその静寂の中で、マイク越しではない誰かの声を耳にした。
それは錯覚ではなかった。
その声は「君もよく知っている共存派の者だが」と前置きした。「調査のために、君の体を貸してもらえないだろうか?」
僕は「記事を書いてくれますか?」と聞いた。
「もちろん。その代わり、火星人としての立場も含めたものになってしまうがね」
- ショートショート
小川 哲(おがわ さとし) - 1986年 千葉県県生まれ。
- 2017年 『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞受賞、第39回吉川英治文学新人賞候補、第31回山本周五郎賞受賞。
- 2020年 『嘘と正典』(早川書房)が第162回直木三十五賞の候補作となる。
- イラスト
麻宮騎亜(あさみや きあ) - 1963年 岩手県北上市生まれ。
- アニメーターを経て、1987年に『コンプティーク』(角川書店)に掲載された「神星記ヴァグランツ」で漫画家としてデビュー。
- 画集に『麻宮騎亜画集』『麻宮騎亜 仮面ライダーフォーゼ デザインワークス』『STUDIO TRON ART BOOK 1993』などがある。
- 代表作「サイレントメビウス」「快傑蒸気探偵団」「コレクター・ユイ」「遊撃宇宙船艦ナデシコ」「彼女のカレラ」他。
- 作中に関連するシミズの技術
- 開発者ストーリー:ダムに魅入られた男たちが完成させたダムコンクリート自動打設システム