清水建設と日本SF作家クラブのコラボレーション企画「建設的な未来」は、これからの社会に起こりうる事柄に対する、よりよい未来の「建設」に向けて、私たちができるかも知れないこと、また、乗り越えた先にあるかも知れない世界をテーマにしたショートショートです。
第7話は藤井太洋さんの『支保工』です。お楽しみください。
第7話
支保工
藤井 太洋
緊急通報の通知ドットが視界の端で点灯したのは、永代天音がコーヒーを注いだマグカップを二つ持ち上げた時だった。
テーブルの上に通知を展開した黒部イサキの脇にマグカップを置いた永代は、隣の椅子に腰掛ける。カップの中では、遠心力で作られた擬似重力がコーヒーを揺らしてカップの縁を乗り越えさせようとしていたが、二人は慣れた手つきでマグカップを傾けて、こぼれそうなコーヒーを受け止めた。
ここはアジア・パシフィック宇宙エレベーターに接続された宇宙島、〈新東京〉だ。
直径10キロメートルの円筒形の大地が、一周わずか200秒の速度で回転して人間に必要な0.5gの擬似重力を生み出している。時速500キロメートルにも達する接戦速度で回転する大地の上で移動する物体は、回転方向に動くのか、それとも逆方向か、軸方向に動くのか、はたまた、大地からどれだけ回転軸に近いのかにによって、異なる振る舞いをして見せる。
〈新東京〉で生まれた赤子は、大地のどちらに歩いているのかによって、転ぶ方向が異なることを学ぶ。自転方向以外に投げたボールは必ず曲がるし、うっかりこぼしたスープは真下に落ちてくれない。だが住民は、コリオリの力の法則に支配された物体の運動を、自然と扱えるようになっていた。第二の本能だと言ってもいい。コーヒーカップの扱いもその一つだ。
永代はマグカップの中で揺れるコーヒーをいなしながら、メッセージに目を通した。
「迷子?」
「ああ。ついさっき、都市エージェントが通報してきた。親にはこれから連絡が入る」
永代はメッセージを最後まで読んで確かめた。迷子になったのは、新・阿佐谷小学校の子どもたち、15人だ。年齢は6歳から11歳まで。
「全員ビーコンつけてるから、すぐ見つかるね。場所はもう拾ってあるの?」
黒部が窓の外を指さした。
太陽を映し出す電池パネルを背景に、円筒状の〈新東京〉を貫く茶色の巨大な柱が人工の空を横切っていた。ビーコンの位置を示す緑色の点は、柱の真ん中あたりにまたたいていた。
「あの中?」
「そう、支柱の中だ。子どもたちは、シャフトの木質隔壁の隙間から構造体の泡梁に入り込んだらしい」
永代は息を呑んだ。
軽量、強靭な構造を求めた宇宙開発ディベロッパーが、人間の設計者を諦めて遺伝的アルゴリズムを選んだ結果生み出された、複雑怪奇な構造体に満たされている。
永代は営繕管理部を呼び出した。
「道案内を呼ぼう。都市サービスに連絡する」
* * * *
2分後にオフィスに現れた女性は、掌をライトグレーの作業着の胸にあてて名乗った。
「営繕管理部、設計監督課、主任設計技師の王女媧です。アバターで失礼します」
王女媧は、頭の横に浮かぶ「SRG」の字をちらりと見て、申し訳ない、と頭を下げた。
コンタクトレンズに描かれた仮想現実(VR)アバターが、生身の職員に操られていることを示す識別コードだ。
「ご一緒できないのですか。てっきり、一緒に行けると思っていたのですが」
「申し訳ありません。アバターで案内する必要があるのです――説明させてください」
王女媧は、テーブルに〈新東京〉の立体構造図を浮かべて、シャフトの表面を覆う木質の外壁を拭いる。両手を差し伸べた王女媧は細い指を細やかに動かして、内部構造を拡大すると、青と緑で色分けされた材質が、蜂の巣のような形で絡み合って泡の表面を作り上げていることがわかる。
「これがバブルビームです。材質はセルフ・フォーミング・レジンです」
成形データを読み込んで、低重力下で自律成形するセルフ・フォーミング・レジンは、〈新東京〉の住人なら幼稚園の頃から馴染んでいる素材だ。PET樹脂の軽さと鉄筋コンクリートと同じ強度を兼ね備えている。ピアスのキャッチからおもちゃ、食器の持ち手、スクーターのフレームにタイヤ、住宅の様々な建材にまで用いられるこの材料が、〈新東京〉そのものも形作っていることは住人の常識だ。
しかし――永代はため息をついた。
「こんなに複雑なんですか」
「ええ、甲殻類の外骨格に近い感じですね」
王女媧は鎖のように連なっている泡の列を指さした。
「子どもたちが迷い込んだのは、この通路です」
王女媧が泡の一つに人差し指を押し当てると、オレンジ色に輝く筋が走る。
その筋を目にした黒部がうめいた。三次元的にもつれ、絡み合うオレンジ色の線は全く予測のできない形に繋がりあっていた。
こんな場所に、子どもたちは迷い込んだというのだ。遠心力による疑似重力がほとんど働かない支柱の中では、上下感覚もほとんど働かない。床も壁も判然としない泡の隙間にただ浮かんでいるだけで、空間失調に陥ってしまうだろう。
黒部が王女媧に顔を向け、怒りのこもった声を漏らした。
「だからアバターをよこしたんだな。確かに迷ったら最後だ。出られなくなってしまう」
「違います。案内のためです」
王女媧はその通路の一部を実物大でオフィスに投影した。
部屋が緑と青の大理石模様の泡に包まれた瞬間、永代は体が傾いていくのを感じて、思わず床を踏みしめる。黒部も同じ感覚に襲われたらしく、テーブルに手をついていた。
錯視だ。平衡感覚が働かない。手がかりを求めて開口部らしい場所に目をやったが、真円のどちらが上なのかわからない。気がつくと、永代は床に膝をついていた。
「無理をしないでください。バブルビームは十五次元空間に生まれた解を、三次元空間に写像して作り出されています。水平や垂直といった、私たちが推測できる幾何学形態は含まれていません。地球で何億年もかけて身体に刻み込んだ、重力と風景の関係性がバブルビームの中では乱されてしまうんです」
王女媧は、傾き、よじれていく部屋の中でゆっくりと爪先立ちになって、羽ばたくように両腕を広げてみせた。
「アバターならこの不規則な泡の塊を、床と壁、天井のある空間に見せかける擬似感覚で置き換えることができます。でも――」
王女媧は腕を振ってテーブルを通過させた。
「アバターでは子どもたちに触れない。」
永代は、足裏に感じるわずかなコリオリの抵抗を捉えて立ち上がった。結局のところ体は必要、ということなのだ。
「わかりました。では、まいりましょう」