患部に放射線を照射し、がん細胞をダイレクトに叩く放射線治療。局所療法で副作用が比較的少ないため、患者の負担が少ないというメリットがあります。とはいえ、がん細胞を死滅させる強力な放射線を使用するだけに、その遮蔽は非常に重要です。病院の放射線治療施設を作るには、法令限度以上の放射線を室外に漏らさないよう、設計されます。多数の病院設計・施工の実績を持つ清水建設では、この遮蔽計算による設計の大幅な効率化を実現した医療放射線施設遮蔽設計アプリ「SC-HoRS®(エスシーホルス)」を発表していますが、今回はこのアプリを開発した研究者についてのお話です。
遮蔽設計で重要なのは放射線の漏洩を国が定めた基準以下にするということ。高エネルギー放射線治療装置(リニアック)室を始めとする高エネルギー放射線治療施設では、そのために壁を1m以上の厚さにすることや、壁の中に鉄板を埋め込むなどの対策を施します。
「壁は厚ければ厚いほど、放射線の漏洩を減らせますが、それが過ぎるとコスト増と有効スペースの減少につながります。効率的な遮蔽が求められているのです」と解説する小迫と能任は、放射線遮蔽の専門家です。
放射線の評価には多様な要素技術が用いられます。放射線が線源から放出され空間に拡がった状態を予測することを放射線輸送計算と呼びますが、これを実行するためにはさまざまな核種の核反応の断面積データや、核反応で生成された粒子の生成量と飛行方向の分布を表すデータなどをとりまとめた核データライブラリ、さらにそれを輸送計算で使用できるようにした断面積ライブラリも不可欠です。小迫は国内のそれらのデータ整備に多大な貢献を果たしてきた人物。能任は小迫について「日本でも屈指の放射線のスペシャリストです。知識の豊かさや深さは社内随一ですし、実務経験も豊富です。」と語ります。
半年以上かかる場合もあった放射線の遮蔽設計プロセス
従来の遮蔽設計では、設計者が放射線治療室のおおまかなプランを仮決めした後、小迫・能任のような専門家が遮蔽計算を行います。この壁の厚さで足りているか、壁内の鉄板は適切かなどを検討・評価し、NGであれば、設計者にプラン改善のアドバイスを行います。
「最初に行う計算から評価までおよそ一週間かかります。その結果に基づいて『ここはもっと壁を薄くできないか』、『出入口の幅を広げられないか』、『コストダウンが図れないか』などの調整が始まります。遮蔽計算のプロセスを完了するまでには1〜2ヶ月、長い場合には半年以上のリードタイムが発生していました」(能任)
これほど時間がかかってしまう理由は、計算自体が非常に複雑だから。
「漏洩する放射線量の計算は(公財)原子力安全技術センターによって整備されたマニュアル(以下、遮蔽マニュアル)に従えばそれなりにできるのですが、過剰な安全評価のために余裕のある厚さとなり、複雑な形状の遮蔽構造は計算できません。そのため、精度が高く複雑形状も計算できるモンテカルロ法を使用したシミュレーション計算を併用していました」(小迫)
放射線輸送のモンテカルロ計算では、放射線の挙動として一個ずつ核反応過程を模擬し、それらを統計処理して結果を得ます。そのための放射線の粒子数は数千万から数十億個になります。そうしたプロセスを劇的に効率化したのが、放射線輸送のモンテカルロ計算のスペシャリストである小迫が2015年頃から手掛けた、リニアック室の遮蔽設計に特化した前身となるツールをベースに、放射線に関する専門知識のない設計者などにも遮蔽計算ができるように能任と小迫が工夫を重ねて開発した医療放射線施設遮蔽設計アプリSC-HoRS(エスシー-ホルス)です。
SC-HoRSは、病院の放射線施設全般の遮蔽設計を見据えたアプリになっており、現在は前身ツールの課題を克服する形でリニアック室の遮蔽設計機能が実装されています。
遮蔽マニュアルやこれまでの研究成果に基づくリニアック室専用の評価簡易式を実装しており、部屋の寸法・形状、壁の厚さ、リニアック装置のスペックや位置などを入力すれば、室外の各評価点(漏洩線量を評価しなければならない位置)を自動的に設定し、数秒以内に漏洩線量を計算して結果を表示する労作です。
「1回毎の計算と評価にも、設計者が設計を再検討するにも時間がかかります。この時間的コストを軽減し正確な遮蔽設計をすることが目的です。SC-HoRSを使えば、設計者が作りたい部屋の形状を入力して遮蔽に過不足がないか、自身で評価できるようになります」(能任)
無意識でやっていたことを意識化する
開発において苦労した点を能任に聞くと、遮蔽計算を自動化する機能を実装するところという答えが返ってきました。
「前述したように、遮蔽マニュアルに基づく遮蔽計算よりも高度な評価を行うため、これまでの経験を元に、部屋の形状から必要なすべての評価点と、適切な計算式を自動的に選び出す必要があります。その際、部屋の形状とリニアック装置と評価点の位置から、計算に必要なパラメータを算出する必要がありますが、これも、ある部屋では可能だった計算が、部屋の形状を少し変えただけでおかしくなる場合もありました。どのような部屋の形状になっても計算が可能となる計算法を実装するところが難関でした」
こうした難関を能任は次のような考え方で乗り越えました。
「単に条件に合わせた機能を何個も作るのでは、条件に漏れがあれば計算が破綻します。これまで自分が計算パラメータを算出する際に、いつどのような判断をしているのかをあらためて整理し、判断の背後にある法則性を抽出して計算が破綻しないようにしました」
これまでの経験の中で無意識のうちに行っていたことを、意識化・見える化するという地道な作業を繰り返し、抽出した法則性を反映させてSC-HoRSは開発されました。さらに小迫とともに実際にモンテカルロ計算を行った場合と「答え合わせ」の確認と検証を繰り返すことでその信頼性を高めていきました。ちなみに、アプリのプログラムも能任自身が書いたとか。間に仕様書を挟んで外注することに対して、仕様の抜けもなく、実際にプログラムを書くことで遮蔽計算の規則性などが見えてブラックボックス化しなかったことも、アプリの開発にはマッチしていたと能任は振り返ります。
今後を見据えて アプリの機能拡張、そして量子コンピュータへ
「一時期、放射線関連の人材が金融工学の分野に流れるという時期がありました。予測が難しい物事を莫大なデータを扱ってシミュレーションするという類似性がそうさせたのですが、新しい分野に進むには技術や手法的なバックボーンだけでなく、どう応用するかというひらめきのようなものが不可欠です。次の世代の人たちには病院関連というフレームを超えて、建設業全般を対象に放射線と遮蔽設計技術が活用できる領域を開拓してもらえたらいいなと思います」(小迫)。
現在はリニアック室を対象とした機能が完成しているSC-HoRSですが、今後はリニアック室以外の放射線関連施設を対象にした機能の実装に能任は取り組んでいきます。
「次のターゲットはレントゲン室。街の歯科医をはじめ、どんな病院にもあるものです。リニアック室に比べ部屋の形状が複雑になり得るため、自由度の高い部屋形状への対応とX線用の評価式の実装を進めており、今年度内には利用可能になる予定です。次年度以降も病院の放射線機器への対応を進めます」(能任)
そう話す彼がSC-HoRSの機能拡張と並行して取り組んでいるのが量子コンピュータの研究開発です。社内留学制度を活用し、客員研究員として英国のユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで量子コンピュータについて学んだ経歴も持つ能任。なぜ量子コンピュータなのかと尋ねてみました。
「量子コンピュータは現在主流の古典コンピュータを大幅に超える計算速度が期待されています。時間がかかるモンテカルロ計算も、問題の大きさによっては1/10000の計算で終わらせることが期待されます」と話す能任。放射線のスペシャリストとしてキャリアを重ねる彼は、量子コンピュータという未来のテクノロジを使って放射線遮蔽設計技術を進化させようとしています。
SC-HoRSを設計者たちが使いこなすようになれば、病院のリニアック施設導入も効率化され、放射線による高度な医療の整備がより進んでいくに違いありません。